第6章 旧人――料理と音楽、眼と脳
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世界の気候はこれまで長く安定していた試しがないとは言え、この100万年は前例を見ないほど不安定だった
グリーランドで採取した氷床コアの酸素同位体や、アフリカの大西洋岸沖に生息するアメーバ状原生生物の殻に蓄積した塵と酸素同位体比を測定してわかったのは、この時期に一連の寒冷期と温暖期が交互に訪れ、周極地域で大規模な氷床の前進と後退が繰り返されたこと 酸素には2つの同位体(O16とO18)があり、一方が他方よりわずかに重い 寒くなると、重い方の同位体は軽い法より雪として堆積する率が高い
ピーク時には、氷床は地表の3分の1を覆うまでになった
氷河作用に伴う気温変動は途方もなく激しかった
現代と比べて、平均気温は低緯度の熱帯でも3℃、ヨーロッパでは最大16℃低かった
これほど大量の水が氷床に固定されてしまったため、海水準が現在より最大で150メートル低く、大陸棚が干上がって、イギリスなど外洋の島は隣接する大陸とつながった
ピーク時最大に拡張したときには、氷床は5000万km³もの水を固定し、雨を降らせる大気中の水分量を少なからず減少させた
この結果、氷期中の気候は現在よりずっと乾燥していた
森林は草原に、草原は砂漠に変わった
風に運ばれて深海に蓄積した塵は氷期に急激に増えることが氷床コアの観察でわかるが、これは隣接する大陸で激しい侵食が起きた結果
この75万年で、完全な氷期・間氷期サイクルが8℃繰り返された 氷期になると、およそ10万年かけて氷床が段々拡大していき、ある時点でにわかに気候が温暖になって次の間氷期の到来を告げる
こうした氷河作用の周期は長い氷期で特徴づけられるわけではなく、氷期中にもやや寒冷な亜氷期とやや温暖な亜間氷期が細かく繰り返される 最後の完全な氷期・間氷期サイクル(直前の間氷期、最終氷期、現在の温暖な間氷期が含まれる)は、12万7000年前に始まった 約11万5000年前、間氷期が終わって気温がどんどん下がっていった
ヨーロッパでは、森がまばらな林になった
残されていた一部の森もヨーロッパから姿を消し、広大なツンドラに変わった 4万年前までには、ヨーロッパと西アジアは完璧な氷期になった 1万8000年前、氷期は最盛期を迎え、ヨーロッパ北部と中部がおおむね氷に閉ざされた
1万4000年前になると、気候がふたたび温暖に転じ、新ドリアス期が終わる約1万年前に最高潮に達した わずか半世紀ほどのあいだに、気温は7℃っと驚異的な上昇を魅せ、氷期がようやく終わりを告げた
こうした激しい気温変動に伴う不安定な生体環境は生物にとってきわめて苛酷だったと思われる
長期にわたって存続したエルガステル/エレクトスの単系統群(クレード)(解剖学的特徴や物質文化においてほとんど変化しないまま、180~50万年前までの約100万年以上存続した)が、あることを思い起こさせてくれる 環境条件が変化をうながす淘汰圧を掛けない場合には、変化は起きないということ
ところが約60万年前に、突如としてアフリカに新種が出現した
しかし、分類学上の詳細は無視して、ホモ・ハイデルベルゲンシスを典型的な旧人とみなすことができる。
ハイデルベルク人が驚くほど早く(約50万年前にボックスグローブに到達していた記録がある)ヨーロッパや西アジアに拡散し、それ以降ほぼ20万年を通してこれらの地で栄えたのは明らかだ だが30万年前までには、ヨーロッパのハイデルベルク人は初期ネアンデルタール人に進化しはじめた これまでのところデニソワ人とされるのは、シベリア南部のアルタイ山脈にある洞窟内で、約4万年前にさかのぼる堆積物から発見された数個の骨のみ
一番可能性が高いのは、彼らは早期にユーラシアへと東に移動したハイデルベルク人だろう
旧人は初期ホモ属を思わせる頑健な体形を持ち、これはほぼそのままユーラシアのネアンデルタール人に受け継がれた けれども、ネアンデルタール人はこの時期に明確な進化の軌跡を描いてもいく
頭蓋容量が時とともに増え、より筋骨たくましくなり、ユーラシア南部のより寒冷な気候条件に適応した 彼らのずんぐるむっくりした体形とやや短い手足は現代のエスキモーを思わせるが、どちらも寒さで体から熱が奪われるのを防ごうとそれぞれ独自にこの適応に至ったのだった 後期ネアンデルタール人は、シャテルペロン(発見場所の「シャテルペロンの幼生の洞窟」にちなむ)とよばれる高度な加工法と関連づけられており、この加工法では石器の製作に新しいルヴァロワ技法が使われた。しかし、シャテルペロンの石器をつくったなかにネアンデルタール人がいたとすべての人が確信しているわけではない ネアンデルタール人の石器は、とくにこの時期に終わり頃にデザインと複雑さにおいて目覚ましい進化を遂げたという説がある
しかし、この主張にはいまだに異論も多い
脳の大きさはみるみる増えた
この事実はこの時期を通じて大きな脳への強力な淘汰圧が存在したことを示唆し、考古学的記録にある石器の種類その他の物質文化に多大な影響を与えている
この理由から私は、ハイデルベルク人に始まるこれら後者の分類群およびその近縁種のみを人類と呼ぶことにする 最初の家族
この洞窟は、ホミニンの最も注目すべき化石遺跡と言っていい この洞窟は並外れて長い期間にわたってさまざまな人類種が生活したことがわかった
1983年、13メートルもの縦穴のそこに、天井の低い小空間を見つけ、ここから史上最大数のホミニン化石を発見した
少なくとも32体分と思われる1000個を超える骨が出た
体のあらゆる部分の骨が発見され、32体は年齢も性別もさまざまだった
遺跡は35万年前にさかのぼるとされ、これらの骨がハイデルベルク人か初期のネアンデルタール人か(最近はこちらの説が優勢)については議論の余地がある
いずれにしても、それはあらゆる旧人につながるある一家族の人骨群
他の旧人と同じく、骨の採掘坑で暮らした人々は現代人と原始人双方の形質を兼ね備えている
頭骨は 眉丘が大きく突出して額が後退し、頤(下顎骨の先端部)がない けれども、脳の大きさは優に1125~1390cm³ある
現生人類から見れば小さいとはいえ、エルガステル/エレクトスのどの標本よりはるかに大きい
彼らはまた頑丈で骨太
脚の骨にはとても厚い表層があり、骨全体を占めるほど(現生人類の場合はたった数mmしかない)で、生前には重いものを運ぶなどのストレスがかかっていたことがうかがえる 背丈は現生人類に近く、平均すると男性で175cm、女性で170cmあり、なかには180cmに達する者もいる
突き出た眉丘、後退した額、頤の消失、第三臼歯の奥のスペースなどを見ると、アタプエルカの人々は後代のネアンデルタール人を思わせる これらの化石が個体群の無作為標本と仮定すると、成人前の死亡率は明らかに高い
すべての標本の半分が死亡時に18歳未満だった
前歯の摩耗がとりわけ激しく、これは顎と頭骨のあいだの関節炎と(ほぼすべての個体で)関連している このことは、前歯が食べ物や食物以外のもの(動物の皮や道具)をつかむ一種の万力として頻繁に使われたことを意味する
歯の成長線を観察すると、個体の多くが生涯のうちにストレスに満ちた時期(病気か食料不足)を経験したことがわかる
多くは乳離れする約4歳で起きている
一方で歯そのものは非常に良い状態にあり、虫歯の兆候はほぼ見られない これはたぶん爪楊枝を使用した結果だろう
臼歯間のエナメル質に縦溝があり、これは細い物体が爪楊枝として使われたためにできたらしい
また彼らは明らかによく病気にもかかったようだ
感染は歯から始まって眼窩に広がったようで激しい痛みを伴っただろう
別の頭骨は耳が不自由だった人の初事例だった
骨折の形跡のある頭骨はなかったが、外傷の痕跡のある頭骨は数例見られた
アタプエルカ5号の頭蓋骨には驚くことにそのような傷跡が13個もあった
彼はとても不注意だったか、喧嘩っ早かったらしい
アタプエルカの化石が穴に落ちた理由は謎に包まれている
動物の骨が穴にたまる最も一般的な2つの理由はこの場合には当てはまらないように思われる
捕食者が獲物を巣に持ち帰った
動物が地表で死んだ後にその骨が伏流水によって穴に流れ落ちた
少なくとも骨格の一部がきれいに揃いすぎている
また、どの骨も動物に噛まれた痕跡がない
死後に遺骸を穴に意図的に放り込んだ可能性が高い
捕食者を寄せ付けないためか、洞窟の居住部分が腐敗した遺体で汚れるのを防ぐため
理由はともかく、これらの遺体の遺棄に形式上の要素はなかったようだ
遺骸は立杭に投げ込んだかのように乱雑に重なり合っている
重要なイノベーション
もちろん、ハイデルベルク人は大きな脳を持つので共同体の規模も増えていた
そこで摂食時間の増加に加えて、この大きくなった共同体の結束を固めるために余分な社交時間が必要だった
私達の方程式を用いた予測では、ホモ・ハイデルベルゲンシスの共同体の平均規模は約125で、この数字はホモ・エルガステルに比して68%という著しい増加を見せる
これは毛づくろいに30.5%の時間を費やすことを意味し、エルガステルの場合より12ポイント近くの増加になる
総時間需要に不経済組織効果の調整を加えると、134.5%という数字になり、エルガステルより10ポイントほど高くなる
無論、この時期を通して寒冷化が進んだので、休息時間の需要は減っただろうが、その効果もせいぜい数ポイント止まりだろう
彼らの時間収支にはまだかなりの超過分が残っていた
しかし、種の平均に目を向けることでこれまで考慮してこなかった問題が一つ残っている
ハイデルベルク人の脳容量が、約30万年前に大幅な増加を見せる点 https://gyazo.com/069efc057f31a15c155118f7bb13e436
高緯度個体群(●, ヨーロッパ)
低緯度個体群(○, アフリカ)
30万年前までは、気温の降下と緯度の付加的な効果により、ときの経過とともに脳の大きさが減ったが、その後これらの制限条件から解放されたことをデータが示している
この制限条件からの解放は、料理に常時火を使うようになったこと、暖かさ、そしてとくに活動時間の長期化とかかわっているかもしれない
試料データの数が少ない場合には断定は難しいとはいえ、エルガステルからの初期の増加から見た図の一番妥当な解釈は、脳容量が50万年前から減少しはじめ、その後約30万年前あたりからきわめて急激に増加したというもの
早期には熱帯地域における標本のデータポイントはほぼヨーロッパのそれよりかなり上に分布することに注意してほしい
このことは高緯度地帯での生活によって、北部の個体群には非常に大きな負荷がかかり、彼らは脳質量(エレクトスの場合について見たように、ことによると体質量も)を犠牲にする必要に迫られたことを示唆する
ところが、30万年前を境に、脳の大きさが急激に増えるとともに、高緯度地帯と低緯度地帯の種間の差異が消失した
彼らは問題の解決策を見出したのかもしれなかった
火を支配し肉を料理する能力を得たことにより、旧人はそれまで解決できなかった脳の大きさの制限条件を克服したと思われる この脳の最近の増大を可能にしたものがなんであれ、それは予測される社会集団サイズと総時間収支双方に影響を与えたはず
年代と緯度について調整すると、30万年前以前の個体群における未調整の平均相総時間収支は低緯度で142.2%、高緯度で139.4%になり、境目の30万年前以降でそれぞれ146.7%と142.4%となる
エルガステル/エレクトスの時間超過に解決策が見つかったので、残るはエレクトスの元々の時間収支の129.5%とハイデルベルク人の時間収支の差のみになる
つまり、初期ハイデルベルク人で超過分の11ポイント、低緯度地帯の後期ハイデルベルク人で13ポイント、高緯度地帯の後期ハイデルベルク人で12.5ポイントの追加節約が必要になる
肉と塊茎のすべてに火を通して食べれば栄養素の吸収が50%増えるので、後期ハイデルベルク人の摂食時間需要のみを見ても14.7ポイント減る 先の計算のように、狩猟採集民にならって食物の最大で45%を肉と塊茎に頼ったと考えると,$ 45/1.5 = 30%に減り、$ 44-30 = 14.0ポイントの節約になる
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図6-3 主なホミニン種において肉食が総時間収支に与えた影響
基準総時間収支(●)
不経済組織効果による節約(○)
笑い(□)
料理した肉をたくさん食べる食性の影響(△)
これだけでも低緯度地帯のハイデルベルク人の赤字を十分に穴埋めし、高緯度地帯のハイデルベルク人に5ポイントの黒字を与える
余裕があるので、肉と根茎をすべて料理する必要はなく、ときおり料理(エレクトス)から、初期ハイデルベルク人のより頻繁な料理へ、さらに後期ハイデルベルク人の習慣的な料理への移行が可能になる
初期ハイデルベルク人が火になれて料理を学ぶ時間をかせぐことができ、全体の流れがより真実味を帯びてくる
30万年前に脳がさらに大きくなるためには、初期ハイデルベルク人が享受したと思われる時間の余裕が決定的だっただろう
図6-3の三角印を見れば、料理された肉中心の食事によって十分な不経済組織効果が得られ、このことが総時間収支に大きな影響を与えたことがわかる
料理にはもう一つ予期せぬ利点があった
齧歯類の摂食行動の制御メカニズムに関する最近の研究によれば、ものを食べるとエンドルフィン系が活性化する 腹いっぱい食べると満足して、くつろいだ気持ちになるのはこのせいかもしれない
たとえば、祝いの席などでたくさん食べるとエンドルフィンが分泌される
食物を料理すると自然に大勢で食べるようになり、このことが社会的結束を固めるのに役立ったかもしれない
私達は一緒に食事刷る人に対して温かく友愛に満ちた気分になる
私達が沢山の人と食事をともにする社会的摂食を重んじる理由、一緒に食事することが相手と知り合える自然な方法だと考えがちな理由なこれかもしれない
こうした集団での食事はあらゆる文化で普遍的に大事にされるが、誰もその理由について考えたことがない
はじめから人間ならそうするものと決めてかかっている
明らかに答えは互いの絆を深めるためだ
ということは、この行為によって旧人は社会的行動にかかわる時間収支をいくらか節約し、これによって脳容量の増加がうながされたかもしれない
すなわち、料理の発明は、ハイデルベルク人が時間収支危機を抜け出すための重要なイノベーションだったかもしれない
さらに、料理すると自然に大勢で食べるようになるので、大規模になった集団の絆づくりをうながす付加的な社交時間を提供した可能性がある
ただし、料理だけでハイデルベルク人のきわめて大幅な共同体の規模増加を完全に説明できるわけではないだろう
たぶん何か別のものが必要だと思うが、それがさらなる笑いだったとは思えない というのも、現在でも、会話では笑いに3人以上を巻き込むことはできないので、エルガステル/エレクトス系統の最終段階では笑いが与える絆作りの能力はすでにその限界に達していただろう
ネアンデルタール人と現生人類のちがいはいかに生じたか
25万年を優に超える期間、つまり現生人類より長い期間にわたって、ネアンデルタール人は大西洋岸から東はウズベキスタンやイラン、北はイギリス南部から南はレヴァント地方にいたるまでヨーロッパ一帯で栄えた 氷期の気候条件にうまく対処し、驚くほど大型の獲物を巧みに仕留めた
ネアンデルタール人の生活ぶりが、現生人類とかなり違っていたのはたしかだ
コラーゲンの窒素・炭素同位体は、食物から直接得られる
元素が骨に取り込まれる仕組みのおかげで、動物の窒素含有量はつねに食物のそれより一定量多いため、その動物が死ぬ前の数年間何を食べたかを知ることができる
炭素同位体の量を見れば、犠牲となった獲物が海洋性、陸生、水生のいずれだったかも判別可能になる
一方で、彼らの炭素同位体レベルは主に陸生の哺乳類を狩ったが、魚や水鳥など水生種は狩らなかったことを示す https://gyazo.com/7bf74a904eb34e58ad1038a0738ccc08
図6−4 ネアンデルタール人(●)、肉食動物(ホッキョクギツネとホッキョクオオカミ: ○)、草食動物(ヤギュウとシカ: ■)、クロアチアのヴィンディヤ洞窟で発見されたホラアナグマ(□)の骨(約2万8500年前)に含まれる炭素同位体と窒素同位体の量 レヴァント地方で得られた証拠では、ネアンデルタール人は強力な槍をおもに用いたことがわかる 彼らはこの槍の先端部の断面が三角形のルヴァロワ石器でできた「穂先」をつけ、獲物を直接「待ち伏せ」して至近距離で仕留めるのに使った可能性が高い のちに現生人類が使った槍と違って、ネアンデルタール人の槍は投槍のように投げるものではなく、つるはしのように突き刺すのに使われた
彼らの腕は現生人類より短いので投擲力が弱く、槍を投げても現生人類ほどの速度も距離も出ない
しかし、ネアンデルタール人はがっしりした強靭な上半身をもっていて、直接対決による狩りでは現生人類より有利だったかもしれない
ネアンデルタール人はそれぞれ生活した場所によって異なる獲物を狩っていて、このことは状況に応じて狩猟戦略を変えたことを示している
クロアチアのクラピナにあるネアンデルタール人の岩陰遺跡(最後の間氷期のはじめ、約13万年前にさかのぼる)では、サイなどの獲物の骨の大半は若く、仕留めた獲物の死体をそのまま居住空間に持ち帰ったらしい 一方で、約12万年前にさかのぼる後代の居住空間で見つかる獲物は、主に頭骨と牙が残されているが、骨格がほとんどなく、大半はより年長だ
他の場所では、ネアンデルタール人は成長した動物をおもに狩った
こうしたことが示すのは、彼らが融通の効く狩人で、その場所にたまたまいる獲物に合わせて狩猟戦略を調整したということ
一部の遺跡で見つかる獲物の多くがかなり老いていたことは、ネアンデルタール人が自然死した動物や肉食動物によって殺された動物の死体をおもにあさった可能性を示唆する
しかし、骨に肉食動物の明らかな歯の跡がついていないことが事実はそうではないと告げている
どちらかと言えば、ネアンデルタール人自身が獲物を殺していたらしいのだ
これらの動物の多くはあまりに大きく(たとえばマンモス)、うまく仕留めるには何人もが協力して至近距離で突き刺しただろう これは狩りとしては明らかに危険な方法で、既に述べたように、ネアンデルタール人の化石骨格には往々にして外傷の跡が見られる
これらの外傷については、突き刺されて怒り狂った大型動物によってつけられたと考えられている
ネアンデルタール人による待ち伏せ型の狩りには緻密な協力体制が必要と考えられたため、このことは彼らが認知能力や未来を見通す能力において完璧に近代的である証拠と解釈された
このような狩りをするには互いの協力が欠かせなかったからだ
そして、これが彼らが現生人類を特徴づける向社会的で利他的な行動を私達と共有する証拠とされた 実際、現在のイランにあるネアンデルタール人のシャニダール遺跡で見つかった、体が不自由で年老いた個体も、フランスにあるネアンデルタール人のラ・シャペル・オー・サン遺跡の年老いた個体も、どちらも深刻な障害があるので自分で狩りをして食べるのは難しいように思われた こうした傍証によってネアンデルタール人は病人や老人を見捨てずに世話をしたとやや強引な解釈がなされた
ネアンデルタール人は新旧すべてのホミニンの中でも最大級の脳を持っていて、知能においてそう劣っているわけではないだろうと思われる
とはいえ、額が狭く、後頭部が突き出ていることから、なにかが現生人類とは違うことはずっとわかっていた
頭骨の内部に残されたかすかな脳の形跡からは、彼らの脳が私達と同程度に組織化されてはいないことが伺えた
もちろん、彼らの脳にも私達と同じ左右の非対称性(言語マーカーと考えられることが多い)と脳回(脳表面のシワ)があるが、私達と比べて彼らの脳頭蓋は細長くて丸みが少なく、側頭葉と嗅球が小さく、前頭葉の空間が小さい この違いはどのようにして生じたのだろう
すべては視覚の特化にあった
脳の大きさがすべてではない
社会脳仮説からわかるように、ある種の社会的世界の規模を決めるのに重要なのは脳の一定の部位(新皮質、とりわけ前頭葉)だ 視覚入力は段階的に精密な分析をする一連の脳領域を経て前頭葉に達する ここで視覚イメージに意味が付与される
けれども、脳の後ろ側にあるこの大きな部位は、網膜から入ってくる情報ストリームを処理するほかにはほとんどなにもしてない
このことがネアンデルタール人について手がかりを与えてくれる
後頭部にある出っ張り
彼らは実は私達よりずっと視覚に頼って生きていたが、その理由がちょっと意外なのだ ネアンデルタール人は、熱帯の先行人類が経験しなかったような新たな問題に直面した
彼らが生活する土地では冬には日が短く、夏でも日差しが弱い
熱帯では、昼間の長さは殆ど変わらず、ごくまれに曇る以外は日差しが強く太陽はギラギラ輝いている
しかし、赤道から北か南に離れるほど、昼間の長さの季節変化が大きくなり、日差しが弱まる
冬は彼らにとって特に辛い時期だっただろう
ただ寒いだけでなく、食物の調達をごく短い一日のうちに済まさねばならない
12月半ばの日長時間は緯度30度で10時間、緯度45度(間氷期にネアンデルタール人が到達した北限)ではわずか8時間になる
さらに高緯度の地域では、日の長さは4時間も短くなるが、それでもなんとか各活動の時間を確保するよう時間収支を調整しなければならない
野生ヤギ(少なくともヨーロッパ北部では完全に昼行性)も同じ問題を抱えている このヤギの時間収支と生物地理学にかかわる私達のモデルでは、高緯度地帯で生きていく能力は、ヨーロッパ北部に行くに従って徐々に短くなる冬に日長時間に影響を受ける
ネアンデルタール人は、日差しについてもう一つ別の問題に向き合わねばならなかった
高緯度地帯では日差しが弱いので、遠くのものを見づらい
これは狩人にとって深刻な問題で、子供のサイを仕留めようとしているときに、母親のサイが暗い森の外れに潜んでいるのを見逃すというミスを犯すわけにはいかない
日差しが弱い地域での暮らしは、大抵の研究者が考えるより大きな負担を視覚に強いる
それは星を眺める昔からの天体望遠鏡でおなじみの原理
大きい網膜を持っていれば、日差しが弱くてもより多くの光を集められる 大きい網膜はそれを入れる大きな眼球を必要とする
たとえば夜行性動物は昼行性動物より大きな眼球をもつ
また非常に大きな受光メカニズム(眼)をもっていても、それで得られる膨大な情報を処理・統合するのに十分な能力をもつコンピュータが後ろに控えていなければ意味がない
視覚系は階層構造をもち、各層は整然と重なっている
彼らの脳は全体から見れば不釣り合いなほど視覚に特化したために、社会認知にきわめて重要な働きをする脳の前方領域がおろそかになったのだろうか
答えはイエスのようだが、この結論はジグソーパズルの異なるピースをはめていって得られるもので、簡単に出る答えではない
ピースの一つは、驚くことに、この関係性が現生人類にも当てはまるということ
私の元学生のエリー・ピアスは世界各地から集められ博物館に収められている各年代の現生人類標本の頭蓋骨を測定した 高緯度で生活した個体群は赤道近くで生活史た個体群より大きな脳と眼窩を持っていた
追跡調査では世界各地の人々の脳スキャン画像から、このことが後頭葉にある視覚野の大きさについても当てはまることも究明した けれども、自然光の下での視力はどちらの緯度で生まれて育った個体群も同じだった ということは、異なる緯度に住む個体群は同じ視力を持つが、極地に近づくにしたがってこれを維持するためにより大きい視覚系を必要とするのだ
言い換えるなら、現生人類もまた高緯度地帯における弱い光を補うために視覚系を大きくして、視力を他の地域とほぼ同程度に保っているということになる
だが、現生人類の場合には、知能と社会的スキルを決める脳の前方部位を犠牲にしてはいない
ここで鍵となるのは、眼窩と視覚系それぞれの大きさの相関 この関係を用いて化石種の視覚野容量を推定し、この容量を脳容量から差し引けば、実際に共同体の規模を決める脳部位の大きさのより正確な推定値を得ることができる
第3章 社会脳仮説と時間収支モデルで見てきたように、霊長類のデータを見ると、社会集団サイズを知るための最良の予測料は脳の前頭葉だが、私達はこれを化石種の頭蓋骨から推定する原理原則を持たない しかし、視覚系を除外することができれば、少なくともとも集団の規模と相関を持たない主要な脳部位を排除できるので、推定値の精度をかなりあげられるだろう
眼窩と視覚系双方の大きさの関係を、ヨーロッパのネアンデルタール人その他の旧人と、解剖学的現生人類に当てはめてみて視覚系の主な領域を推定し、これを脳全体の容量から差し引けば、各種の社会脳のより正確な推定値が得られる
こうして個々の化石標本について得られた脳容量を、類人猿の社会脳方程式に代入して内挿すると図6-5のようになる
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事実、図6-5からわかるように、ネアンデルタール人の共同体規模はハイデルベルク人と同じ(約110人)だった
Pearce et al., 2013が少し大きい数値を出しているのは、(論文査読者の要求に応じて)彼らが社会脳の関係を推定新皮質サイズではなく頭蓋容量を用いて計算し直したためだ。これでも有意な関係は得られるが、不要な脳領域(脳幹、中脳、小脳など)を計算に入れたことで、より多くの誤差分散が生じ、得られる直線の傾きが大きくなり、種間の違いが減る つまり、同時代の解剖学的現生人類の3分の2ほどになる
換言すれば、高緯度に適応するにつれ、ネアンデルタール人は視覚系の大きさが増えたが、前頭葉の大きさは増えなかった
解剖学的現生人類は(先行人類の)ハイデルベルク人とほぼ同じ規模の共同体から始めたが、まだ弱い光の問題を経験していない熱帯アフリカにおける初期の進化で段階的に集団の規模を増やした(そして、これにともなって脳が進化した)
ネアンデルタール人と解剖学的現生人類間の集団規模の違いはきわめて重要で、ネアンデルタール人の社会時間収支に多大な影響を持つ
もちろん、それは彼らの摂食時間コストには影響しないが、それは接触時間が脳と体を合わせた大きさによって決まるからだ
しかし解剖学的現生人類に比して社会共同体のサイズが約40人違っていれば、ネアンデルタール人は社会時間収支を11ポイント節約でき、負担が大きく軽減されただろう
それでも彼らは日中の67.5%を摂食に費やさねばならないが、正味の効果は超過分が39%(不経済組織効果について修正後の数字)から、ハイデルベルク人の超過分に匹敵する28%に減少することだ
そしてこれは、ハイデルベルク人が時間収支危機を脱するのに取った解決策が、ネアンデルタール人の要求をも満足させることを意味する
料理による時間節約で十分な余裕が稼げたため、ネアンデルタール人は少々残った時間を祖先のハイデルベルク人より脳をいくらか(141cm³、12%)増大させるのにあてられた 毛づくろいとしての音楽
その趣旨は、ネアンデルタール人が(そして現生人類も)困難な氷期の時代に生存をかけて音楽と言語能力を進化させたというもの ネアンデルタール人(そしてハイデルベルク人)の共同体は解剖学的現生人類のそれよりは小さかっただろうが、それでもなかなかに大きく、毛づくろいと笑いを効果的な絆づくりのメカニズムと認めるには疑問が残った
彼らはギャップを埋める別の戦略を持っていたに違いなかった
どちらもまったく同じ解剖学的および生理学的過程をもつ
メロディを口ずさむこと(ハミング)も、文節化、構音、区切り方、共時性など多くの性質を笑いや言語と共有しているので、笑いと完全な話し言葉をつなぐ理想的な架け橋といえる ここでは音楽に関連する身体活動について
たとえば、歌ったり(歌詞なし)踊ったり、リズムに合わせて音楽的な表現(ドラムを叩いたり、手を叩いたり、さまざまな簡素な楽器を演奏したりするなど)をすること
ゲラダヒヒは、やや小規模の繁殖単位(1頭の繁殖期にある雄、ときんは一頭の下位の雄、3~6頭の繁殖期にある雌とその子たちから成るハーレム)で生活し、平均で約100~120頭(他のどの霊長類より規模が大幅に大きい)の集団を校正する こうしたより大きい集団内にたくさんの個体がいるので、ハーレム内の社会的つながりに多大なストレスがかかると思われ、ゲラダヒヒは相当な時間(これまでに知られる野生化の動物で最長の時間)を社会的毛づくろいにあてる しかし毛づくろい時間を見てみると、自分たちにとって自然な集団規模を維持するほどの時間を毛づくろいに費やしてはいない
彼らは平均で約110頭のバンドを形成するので、私達の毛づくろい時間方程式によれば日中の36%を毛づくろいにあてるはずだが、実際には平均で17%しか毛づくろいしない このジレンマに彼らが出した答えは音声による一種の毛づくろいだった
ゲラダヒヒはあらゆる霊長類のなかでも最も声をよく使い、他のどのサル(または類人猿)より大きく複雑な音声のレパートリーをもつ とりわけ、他のヒヒやマカクザルに比して極めて複雑なコンタクトコール(親和的意図を伝える鳴き声)を多数持ち合わせていて、毛づくろいの間のみならず、より重要な摂食中にもこれらのコールを絶えず使う 毛づくろいしている個体間で交互に鳴き交わしたり(やや人間の会話に似通っている)、ハーレム内の大人全員がいっせいに鳴き声を上げたりする
これらのコールのタイミングは非常に細かく調製されていて、鳴き声の間の無音期間はあまりに短く、互いに鳴き声に反応しているというより、相手の鳴き声パターンを予期して自分の鳴き声を適切に挿入しているとしか思えない
これらのコールは離れた場所間で音声による毛づくろいとして機能しているらしく、さまざまな活動(摂食や移動)との関連から、実際に身体的に接触できない時間でも毛づくろい相手やハーレム内の仲間との連絡を可能にしている
これらのコールがとりわけ興味深いのははっきりと音楽性が感じられること
それは霊長類に特有の歌声らしき性質をもち、このことは霊長類の基準では異例なほど大きな社会集団で生活するのを常とするヒヒにとって利点になったと思われる こうしたさまざまな音色の鳴き声を発するのは、ヒト以外の霊長類には見られず、ヒトが言葉を発するときのようなやり方で、発声空間(唇、下、口内空間)をコントロールすることを必要とする となれば、それはホミニン系統でいっせいに声を出す行為の完璧なモデルを提供してくれる
これを検証するため、私達は笑いに使ったのと同じデザインで、さまざまな音楽活動に関する一連の実験を行った
実験では、疼痛閾値の変化をエンドルフィン活性化の指標に用い、音楽活動(聖歌を歌う礼拝、ドラムのサークル、踊り)をする人々の群を、そうした活動をしない対照群と比較した すると、その種類にかかわらず音楽活動をするとエンドルフィンが分泌される一方で、より静かな活動やただ音楽に耳を傾けているだけではエンドルフィンは分泌されなかった
ということは、社会的つながりを強固にする薬理学的メカニズムを活性化するのに音楽を使えそうだ
社会的つながりを維持するメカニズムとして、音楽活動は笑いより重要な利点を2つ持つ
まず、音楽はたくさんの人を巻き込むので、「毛づくろい」相手の数を劇的に増やす
音楽効果の上限についてはまだわかっていないが、笑いの上限の三人より大きいのは間違いないだろう
集団サイズが3人より大きくても、音楽はそのより大きな集団内の絆を固めてくれるはずだ
2つ目の利点は、音楽活動(歌う、楽器を演奏する、踊る)には明確な共時性があり、もちろん、これは全員のタイミングを合わせるリズムによって主に得られるということ 共時性にはなにか純粋に不可思議なものがある
身体運動によって分泌されるエンドルフィンをおよそ2倍に増やすらしい
激しいレースでボートを漕ぐのは身体強度とさほど関係ない
選手たちはみな同じように強く健康そのもの
勝敗を決めるのは、一定の漕ぐ速さとタイミングをどれほど長く維持できるか
8人の漕ぐタイミングがずれると推進力が大きく減じられる
行動の共時性を調べるのに理想的な試験台
私達は疼痛閾値の変化を使って選手のエンドルフィン分泌を調べたが、これを彼らが早朝のジムでローイングマシンを使って練習しているときに行った
まず、選手たちは一人でマシンで練習し、後日、マシンをつなげてボートに見立てて選手全員で練習した
マシンをボートに見立てたときのエンドルフィン分泌(疼痛閾値の変化)は、選手が一人で漕いだときの2倍だった
どちらの状況でも労力は同じ
理由はともかく、タイミングを合わせて行動することでエンドルフィン分泌がかなり活発になるようだった
音楽の役割(おそらく最初は大勢がいっせいに笑っているような、言葉を伴わない音声で、のちにより現在に近い音楽と踊りになっただろう)が、離れた相手に対する毛づくろいという形態、すなわち、ヒトの共同体規模がエルガステルやエレクトスの75人を超えたときに、社会ネットワークのより多くの層を取り込める形態を作り出すことだったのなら、各人に接触を試みねばならない場合に必要な社交時間に比べれば、追加の社交時間需要はきわめて小さいものになっただろう
自分たちが社会ネットワークでどう絆を築くかを考えれば、この問題の大きさがわかる
現代人のネットワークでは、各人に割かれる時間は階層を外に行くにしたがって急速に減る
私達は社会ネットワークを構成する新しい最外層の150人のうち100人に1年に2度ほど会うが、最内層の5人には平均で2日に1度会う
いちばん外側の層は私達の社会交流の20%未満を占める似すぎないが、それでも1年で200回接触することを意味する
それぞれの出会いはいたって短くても、全てを合わせれば相当な時間になる
相手がこの層に属するとそうなりがちだが、その人に会うために移動するとなればなおのことだ
狩猟採集社会と現代社会のいずれにおいても、この最外層にいる人は少なくとも1日かけて移動した場所に暮らしている
図3-5のヨーロッパの個人的社会ネットワークの例では、最外層の人への平均距離は、時間にして17.8時間(移動にほぼ2日)
もちろん、人間は家族単位で暮らすので、移動すれば平均で一度に5人に会えるかもしれない
それでも、1度の移動に1日かけるにしても、150人のうち最外層の100人全員に会うには遠い土地にいる友人や親戚を訪ねるだけでも1年で38日かかる
もちろん、これにはより大切な内側の三層にいる50人は含まれておらず、その中には毎日接触しなければいけない人もいる
もしこれを1年にたった1度の踊りという音楽活動でいっぺんにすませられるなら、全員の「毛づくろい」にわずか1, 2日ですむので時間コストを大幅に減らすことができる
3日かけて歌って踊っても、それを1年に1度すればいいので35日の節約になる
最外層にほぼ余分な手をかけなくてすむ
大きな共同体サイズを維持するためにハイデルベルク人に求められる6%の余分な社交時間は、1年に22日になる これが3日ですめば節約分は明らかに大きく、超過分の社交時間はエルガステルの基準線より1%多いだけだ
ハイデルベルク人の時間収支は楽に調整できるだろう
唯一の問題は、こうした類の集まりをもつにはどうしても言語が必要になること こうして、旧人に言語をもっていた種がいたか否かが問題になる 言語がいつ進化したかについては次章
言語がいつ進化したかを議論し終えるまで、こうした集いをどうやってもったかについては疑問のままにしておく
とはいえ、共同体とまではいかないまでも、中程度の大きさの集団内の絆を深めるのに、音楽が笑いの補助的なはたらきをするよう旧人の段階で進化したのかもしれない
この章では、最終的に料理のみならず音楽をも導入することによって、旧人が直面した時間収支危機の問題を解決してきた
考古学的証拠によれば、約30万年前にその鍵を握る転機が訪れ、それが脳の大きさにかかわる主な制限条件を排除してくれた
ちょうどその頃、ネアンデルタール人がヨーロッパで栄えていて、これが料理と火の支配と時期が重なっていることも指摘した
次は解剖学的現生人類についても同じ問いを立てねばならない